ブッシュライフのいざない
人里はなれた森の中に暮らすドイツ人と日本人の夫婦がいると聞いて一月の某日彼らを訪ねることにした。
町まで迎えに来たのはご主人のラルフ。故郷ハイデルベルクではセールスマンをしていたという彼だが極北の自然に魅せられてアラスカの原野に移り住み、以来夏はアウトドアスクールの経営し、冬には奥さんのリコ(りつ子さん)と共に建てたログキャビンでの生活を紹介するブッシュライフ体験ツアーを行っている。
まずフェアバンクスから車で1時間程走ったマーフィ山頂へ。この時点で既に人影のない場所まで来ているのだが、ここでスノーモービルに連結させた立ち乗りの橇に乗り換えてさらに森の奥へ。緩やかな下り坂が時折カーブするたび後方に繋げられた橇が左右に揺れる。しっかり握っていないと振り落とされそうになるが転んだところで雪なのだから大丈夫。家に辿り着くための手段がアラスカならではの体験につながるが嬉しい。トウヒの森のなかを約1時間、この日の気温マイナス32℃は通常のツアーには寒すぎるということもあり手や足の先の感覚がなくなって来た頃、チャタニカ川の畔にあるログキャビン到着。震えながらキャビンに入り手足を解凍、リコの笑顔の出迎えと冬のドイツの風物詩ホットワインが冷え切った身体を癒していく。
こんな寒さでも元気なのは犬たち。アラスカの冬には犬ぞりが一番頼りになる。マシーンは寒すぎると故障する(凍る)こともあり、移動するには馬やトナカイでは食料の調達が難しい。実際、アラスカでは子どもたちの通学用に犬ぞりを使う地域も多い。「Go
Home」の一言で家まで連れてってくれる賢い彼らは家族の一員として各地で活躍している。このツアーで犬ぞり体験を希望する人がいるとラルフの友人であるドッグマッシャーのオラフがはるばる犬を連れてやってくる。もちろん私たちも挑戦。
凍ったチャタニカ川を静かに走り出すと、そこはもう犬の息づかいと橇が雪上を滑る音しかしない静寂の世界。「昔はみんなこうして生活していたんだ。」そう呟くオラフの声には原野で昔ながらの暮らしを営む者の誇りが感じられた。短い冬の太陽はすでに姿を隠し上弦の月が雪上を照らしていた。風が頬をうち涙が流れては凍る、そんな寒さに心地よさを感じながらふと一遍の詩を思い出していた。
Give me a winter,
Give me dogs,
You can have rest.
by William Pruitt
ログハウスには電気も水道もないので火は森の薪から水は川の雪解け水から調達し、灯かりは木造の家に調和するガス燈が使われる。ふと、居候のジョーが大きな魚を手にぶら下げてやってきた。家のすぐ前の凍った川にドリルで穴をあけ釣竿を落とす所謂アイスフィッシングが大成功。バーボットという体調80cmはある大物、夕食のおかずが増えたと一同大喜び。
夕食はリコ特製のハンガリー風シチューに加えて、新鮮なバーボットのフライ。デザートには手作りケーキに家の外の自然冷凍庫に放置していたアイスクリームをトッピング。これが実に美味しい。ここにはテレビも音楽もない、一度薪をいれると丸一日火が持つ暖炉を囲み団欒の夕食。「かつて豊かさとはお金ではなく薪の数と捕ったムースのお肉の蓄えで決まっていたんだ。」とジョー。アウトハウスと呼ばれる野外トイレへ出ると、自分たちのいたキャビン以外には人間の生活のにおいが全くないことにあらためて気づく。煙突からの白い煙だけが月明かりに浮かび上がり、部屋の中から笑い声が溢れてくる。静けさと暖かさを同時に感じさせるそんな夜だった。
夜も更けて名残惜しいが帰路につく。満天の星空を見上げて橇に乗っていると、森林限界を超えたあたり、視界が広がったマーフィ山頂にてオーロラが出現。なんとも贅沢な一日の締めくくりであった。原野を離れると次第に見慣れた薄明かりが視界に広がり自分が街の生活に戻ったことを告げた。都会の生活で心が曇りかけた時、きっと私はこの夜のことを思い出すだろう。
オグ 2006年 1月
